私が教える仕事を辞めたかった理由

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世間知らずの劣等生が「先生」と呼ばれる恐怖

私は、23歳の時に歌の先生となりました。
音楽の高いスキルも知識も無い、バンドねえちゃん(こんな言い方今しますか?)で、高校を卒業してから証券会社でOLをしながら歌の専門学校に通っていた程度でしたから、一応採用試験には受かりましたが、先生の劣等生であったことは間違いありません。

随分前の話で…。
今となっては、ボーカルスクールって沢山ありますが、まだまだポピュラーのお教室は少なかった頃です。
なので、習いにくる生徒さんたちは、かなり本気度の高い方が多くて、私より歌える・知識もある・ビジュアルも良いなんてざらでした。
その証拠に、これは私の自慢でもあるんですが、初期の生徒さんの中には、シンガーとして、作家としてデビューした方が数人います。

そんな生徒さんたちに囲まれて
「先生」と呼ばれるのが怖くて嫌で仕方がありませんでした。。。

私は、先生になりたくて試験を受けたのではなくて、実は、OLを辞めてアルバイトを掛け持ちしていたのですが、割の良いお仕事として試験を受けました。
もちろん、音楽関係のお仕事というのが魅力でした!!

確かに、バイトを掛け持ちするよりは暮らしも安定しましたし、レッスンはとても楽しかったです。

ただ、気がつくと私は中堅〜ベテランと呼ばれるようになり、成績の良い生徒さんに恵まれて、コンテストでも常連になり…。
私には実力はないのに、高く評価されるようになってしまっていました。

全ては「私は先生になりたかったのではない」
というところで生まれてしまったギャップだと、今はわかるのですが、当時はお世辞にも歌が上手くない自分が先生と呼ばれ、更には評価されてしまっているのがプレッシャーでした。

先生なんだから歌えるのが当たり前という世間の目の恐怖

先生になりたくて試験を受けたのではないという事実以上に私がコンプレックスを持っていたのは、

「誰もが歌えるような定番曲を歌えない」ということ。
練習すればそれはもちろん歌うことは出来ましたが、日頃から興味を持って有名女性アーティストの曲を覚えて歌うということはしませんでした。

本音は、ただ興味がなかったということです。

オリジナル曲を演奏するバンド活動からスタートした私にとっては、既存曲を上手に歌うことにエネルギーを注ぐというのはナンセンスなような感覚で、それよりはより個性的に音楽する方が楽しかったんです。

でも、努力して時間を作れば、歌の練習なんていくらでも出来たはずなのに遊びまくっていたので、やはり先生としては怠慢でしたね(汗)

「先生らしくないね」
と言われるのは、嬉しくもありコンプレックスでもあり…
とにかく、歌がうまいんでしょという目で見られるのが怖くて仕方がなかった日々でした。

教えることへの気持ちがプツンと切れた瞬間

そんなプレッシャーやコンプレックスをよそに、私は順調に講師として進歩していたように周りには見えていたと思います。

ゴスペルのコースが出来て、その大きなイベントでは毎年司会を担当したり、キッズゴスペルコースが出来た時にはカリキュラム作りにも参加。生徒さんもたくさんいましたし、充実していたのに間違いはありません。

でも、プツンって糸が切れるみたいに
「私ダメだな…。」と思ってしまった瞬間がありました。
それも大きなステージの上で、講師演奏として歌っていた時。

「他の先生方と私は全く違う。私ってダメな先生だ」
ステージには大勢の先生方でとても華やかで、客席の生徒さんたちは、ステージをうっとり見ていました。
キラキラ色とりどりの衣装を着て素敵な先生たちの中で私は、一人だけモノクロになってしまったような感じで、まだコンサートは続いていたのですが、すぐにでも逃げ出したい気持ちでした。

実は私は、30代の時に入院手術をしていて、長期でお休みしたり、それでも体調があまり良くはならずに、騙し騙しレッスンを続けていたという経緯があります。

「もうだめだ」
と思った瞬間から、私の心はもちろん、体も頑張ることができなくなり、私の生活を支えてくれて、成長させてくれたヤマハの講師のお仕事を退任しました。

そんな私なのに、実はその後も教えるお仕事をたくさんさせていただいています。
依頼主も色々で…。今思うと、本当にありがたいことです。

特に、シニアを中心としたゴスペル講座のお仕事は、とても新鮮で楽しく、その後サークルになり長いお付き合いをさせていただきました。
私としては、出来ることなら80歳までこのメンバーと歌っていたいと思っていたのですが…。
体が言うことを聞かなくなり、そうなると心もまた自信喪失となってしまいました。

「私より、もっと他の人が指導した方が良いに決まっている」
そんな私のわがままを、2人の先生が理解して引き継いでくださり、その時は心も体も軽くなったのを覚えています。
そして今は、自分のためだけに歌い、のんびりと気ままに過ごしています。

そんな私でしたが、実は最近自分の中に稲妻が落ちるほどの衝撃を受けたのです。

ビジネスパートナーを育てているという一言に衝撃を受けたあるピアノの発表会

ここからの話はつい最近のことになります。
コロナ禍で一度無くなったピアノの発表会の司会のお仕事でしたが、今年また声をかけてくださったピアノの先生がいらして、ありがたくお仕事をさせていただきました。

この発表会、入りから打ち上げまで

「え?なにこれ?」
という感じだったんです
新感覚だと感じたのは、先生と生徒さん、そして父兄の方たちとの距離感。

私も講師時代には数えきれないくらいの発表会をしてきました。
そんな日はもう朝から先生らしくいることが大変でしたが…。

この発表会では、なんだか先生がずっと一番楽しそうで、生徒さんたちのリハーサルを取り仕切っているのは、お母さんたちという(驚)

後日行われた、反省会という名の打ち上げ?にも参加させていただきましたが、そこで私は衝撃的な言葉を聞きました。

「私は、ビジネスパートナーを育てている!!」

私の解釈ですが…。
ピアノというツールを使いながらも、生徒さんたちが自立して地域の、その先には日本の、世界のリーダーになれるようにという想いで、持てる知識を惜しみなく伝えているということ。

「あぁ…。
こんな風に思えていたら、こんな風に堂々と生徒さんにも言えていたら、私は今も多分楽しく教える仕事をしていたな〜!」

もう今からでは戻ることは出来ませんが、私はダメな先生で教える仕事を辞めたと、心のどこかでずっと思っていたので、許されたような気持ちになったのは最高の喜びです。

過去に生徒さんという立場で関わってくださっていた何人かは、今、私の周りでバリバリとお仕事をして輝いていますから、そういう意味では、少しは何かを伝えられていたかもしれません。

なんとも自分よがりの、勝手な懺悔と赦しのブログになりましたが、お読みくださりありがとうございます。

ビジネスパートナーを育てる素敵なピアノ教室はこちら

 

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